聖書:マタイによる福音書25:31−46(新約p.50)
説教:廣石望
「最後の審判」では、神の正義が実現します。同時にそれは、使徒パウロが発見したように、神なき者を信頼のみに基づいて義とする、神の恵みが完成される場です。
本日の箇所の冒頭では、「人の子」が御使いたちとともに到来し、裁きの玉座につき、万人がその前に引き出されます。これはユダヤ教の思想なのですが、それがここでは、神によって死から起こされ、天にあげられたイエスのことだと理解されています。
万人を裁くのは、私たちのために命を棄てたキリストです。彼の審判は、見ず知らずの裁判官による、単に公平なだけの裁判を超えるでしょう。
この「王」なる審判者は、かつて自分が「飢えた」「渇いた」「よそ者であった」「病気をした」また「牢にいた」と言います。生前のイエスは、弟子たちとともに、故郷と職業と身を守るすべを放棄し、傷つきやすい使者として、行く先々で出会う人々の善意だけを頼りに「神の王国」の平和を告げて回りました。
ユダヤ教では、審判の規準は通常、安息日や食物規定その他の律法の遵守です。でも、私たちのテクストに律法への言及はありません。それに代わり、弱者への自発的な労わりと配慮が前面に押し出されます。違反を取り締まる法でなく、自由な慈しみがもたらす創造性が、つまり恵みが審判の規準です。
面白いことにそれをした人も、あるいはしなかった人も、いつ主イエスに対して自分がそうしたのか、まったく自覚していません。山上の説教のイエスは、よい行いを「隠せ」と勧めました。ただ神のみから報いられるためです。これは打算と自己演出の終わりであり、私たちは自由です。最後の審判は、今すでに神の恵みの行為です。
<廣石望牧師プロフィール>
廣石望(ひろいし・のぞむ)岡山県出身、日本イエス・キリスト教団香登教会で受洗。東洋史学(広島大学)、西洋古典学(東京大学大学院)、プロテスタント神学(スイス国チューリヒ大学)を学ぶ。フェリス女学院大学チャプレン、同大国際交流学部教授を経て、現在は日本基督教団代々木上原教会担任教師、日本基督教団世界宣教委員会委員長、立教大学文学部教授、日本聖書学研究所所長、日本新約学会書記、聖路加国際大学理事。